今日から関西圏は梅雨入しました。
もうじき6月も終わり、7月・8月というのに今年の夏は遅いみたいです。
さて、サハリンでも短い夏が始まる季節です。
『チェーホフも鳥の名前』では、チェーホフと宮沢賢治が登場します。
今日は、二人の作家とサハリンとの関係についてのお話。
この二人がサハリン(樺太)へ訪れたのも、7月と8月でした。
チェーホフ

(絵:竹内まりの)
チェーホフがサハリンにやって来たのは、1890年7月11日。
彼が30歳の頃です。
その年の4月にモスクワを出発するところから、サハリンへの旅が始まります。
その旅の記録は『シベリアの旅』に、サハリンの滞在で調査した記録は『サハリン島』に書かれています。(いずれもチェーホフ著)
サハリン北部にある「アレクサンドロフスク・サハリンスキー」という街を拠点に、北部サハリンの調査に繰り出します。そこで出会った住民の調査、村の人口や地形、収容されている囚人たちの実態調査など、詳細に記録されています。北部調査が終わった後は南部へ移動し、日本人や朝鮮人とも接触した様子も記録されています。
サハリンの調査が終わったあと、日本に行く予定だったそうですが、その当時日本ではコレラが流行っていたため、日本行きは断念したそうです。
もし、チェーホフが日本に来ていたら、どんな記録が残っていたんでしょうね。
それにしても、「モスクワ−サハリン」間ってものすごく離れています。
当時は飛行機もありません。
その旅はとても過酷だったと思うのですが、それほどまでに「サハリン」に突き動かされたパワーは何だったんでしょうね。
7月から10月の、島を離れるまでの約三か月の記録『サハリン島』。
夏の課題図書にいかがでしょう?
坦々と膨大な情報量が詰まった記録なので、辞書を読む感覚でお読みください。
チェーホフが訪れた、33年後。
今度は宮沢賢治がやってきます。
宮沢賢治

(絵:竹内まりの)
宮沢賢治がやって来たのは、サハリンが日本統治時代だった1923年8月3日。
当時は「樺太」と呼ばれていました。
この年の7月31日に岩手県花巻を出発します。
当時学校の先生として勤めていた、花巻農学校の生徒の就職先を探すため、
この年の5月に就航したばかりの、北海道「稚内」と樺太「大泊」を結ぶ「稚泊船」に乗って樺太へやってきました。
到着した8月3日に「大泊」から樺太鉄道に乗って、東海岸の執着駅「栄浜」まで。
そこで『オホーツク挽歌』や『樺太鉄道』の詩が生まれます。
チェーホフの書かれた記録のどんよりとした描写と違って、様々な植物や自然の様子が色彩豊かに描かれています。
そのあと、樺太で一番大きな町「豊原」に立ち寄り『鈴谷平原』という詩も残します。
8月7日に樺太を離れるまで、滞在期間は5日と短いのですが、記録に残っていない空白の2日間や、この前年に失くした妹トシとの別れの旅だったのでは?などと言われています。
この時に乗った樺太鉄道がのちの『銀河鉄道の夜』に影響を残しているとか。(この鉄道の走行速度が自転車程度と言われるほど遅かったようですが。)
この旅がどこかセンチメンタルに感じるのは、
賢治にとって、単なる就職先を探しだけではなかったのかもしれません。

(絵:竹内まりの)
いかがでしたか?
それにしても、チェーホフも宮沢賢治も病気がちで身体が強くなかったと言われています。
それのに、どうして長旅をしてまでサハリンに向かったのか、不思議でなりません。
そんな私も、サハリンへ行ったこともないのにすっかり夢中になっている一人です。
人を引き寄せるは不思議な島「サハリン(樺太)」。
いやー、ワンダーアイランドっす!!
この二人が『チェーホフも鳥の名前』にどう登場するのか、お楽しみに!
ニットキャップシアター第39回公演
『チェーホフも鳥の名前』

2019年8月31日(土)〜9月2日(月)@アイホール
公演サイト:http://knitcap.jp/bird/
チケット予約:予約フォーム